清水山城

滋賀県湖西の清水山城行きました。

鈍行で米原近江塩津経由で新旭駅。距離の割に遠い。

新旭駅前の観光センターで城の地図を貰い移動。

スポーツ公園のテニス場の横を通る。城の看板は多いので、迷うことはない。

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獣害防止用フェンスを開けて山へ。熊鈴持参したものの、城の草刈りしてる人もいて、動物の気配は特になし。

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フェンスを通ってちょっと行くと、別ルートから車でも上がれるようで、車でも通れるような道。そんなに苦労せず頂上へ。途中で草刈りしてる方数人。

主郭は結構広く、屋敷跡あり。送電鉄塔あり。琵琶湖が一望できて、彦根城等も見ることが可能なようであるが、もやってて見えず。

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南側の2郭方面はかなり大きな堀切があって驚き。

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主郭への斜面や北側には竪堀があるようであるが、草茫々で確認できず。

帰りは東海道線が人身事故で止まってるとのニュースがあって心配だったが、大垣についた頃には動いていて帰宅できた。後で岡崎で甥が叔母を殺した後鉄道に轢かれた事件と知ってびっくり。

「CRISPR (クリスパー) 究極の遺伝子編集技術の発見」ジェニファー・ダウドナ著

2017年に出版された最新の遺伝子編集技術のお話。

細菌のウィルス防衛機構を利用した遺伝子編集技術。細菌のDNAの中に、ウィルスのDNAの一部と同じ構造があり、その構造をターゲットとして切断するという防衛機構がある。構造部分を編集することで意図する部分で切断可能になる。

これまでの遺伝子編集技術と比べて精度やコストで格段に有利になった。

開発されてから数年経ってるわけで、現状はどこまで進んだか気になるところ。一般人には知らないところでトンデモナイことになってそう。

「第一次世界大戦と日本」井上 寿一著

第一次世界大戦が日本にどのような影響をもたらしたか。

日本が第一次世界大戦で参加した戦争は、青島等のドイツ植民地への侵攻、地中海への護衛艦隊派遣、そしてロシア革命に対抗してのシベリア出兵。

戦中の好景気から戦後の不景気で、国家予算への軍事予算が突出してるのも相まって軍縮の流れに。

ベルサイユ条約から国際連盟が結成されるのに従って、国際協調の時代。

等々融和的な流れになるも、世界的な不況から経済格差の是正を求めてファシズムの道へ。

「武士の起源を解きあかす――混血する古代、創発される中世」桃崎 有一郎著

武士がどのように発生したか。著者の説であって確定しているわけではないが結構面白い。

武士は弓馬の使い手であり、特殊技能の持ち主である。地方の農民が習得できるものではない。子どもの頃から修練に打ち込むことができる有閑階級である。

貴族出身の国司が、地方の実力者郡司と婚姻によって結びついた血族が武士の起源であるという主張。

桓武天皇が大量の子供を作ることで、皇族が増殖し、地方に飛ばされまくったという記述が面白い。

「落日の宴―勘定奉行川路聖謨」吉村昭著

幕末にロシアから来航したプチャーチンと交渉し、日露和親条約を結んだ川路聖謨

長崎に来たプチャーチンと一度交渉後、今度は下田で交渉。昔の人の移動力はすごい。

下田で交渉中に大地震が発生し、津波でロシア船が損壊し沈没。ロシア人を帰すために戸田村で船を作ることになるってすごい展開。ロシア船が沈没してロシア人が大変だったときに伊豆の人たちが見せた優しさに感動した。下田や戸田に行ってみたくなった。

後半は川路が老いていく中、幕末の怒涛の展開。川路が中風で臥せっている間に、官軍が江戸に進軍し、江戸占領目前で川路はピストル自殺。不随の身で切腹できなかったのね。官軍と戦って討ち死にというイメージが合ったけど他の人とごっちゃにしてた。

「室町の覇者 足利義満」桃崎 有一郎著

義満が南北朝時代をいかに収集させたか。著者の話はかなり独特で、どこまで本当かわからないけど実に面白かった。

そもそも足利幕府がなぜ脆弱だったかと言うと、成り立ちに問題がある。

実質的に幕府を成立させたのは尊氏の弟直義で、尊氏は能動的に動かず神輿だった。

直義は鎌倉幕府を足利氏で再現することを目標としていて、自分は執権になるつもりだった。そこに問題があって、直義とともに幕府を作り上げた自立心の強い大名と、それに対抗する大名が尊氏を担いで派閥争いをすることに。さらに朝廷が南北朝に分裂して収集がつかない。

義満は武士の派閥がいくら和平しても、朝廷が別れている以上、それを担いだ戦いが収束しないのに気づいて、まずは朝廷の分断を収束させることを考えた。そのために自らが朝廷に入って仕切ることにした。朝廷の実権を握って南北を合一させる。その後に有力大名の勢力を削いで幕府の支配下にすることに成功した。

足利将軍は二代までは京都にいても鎌倉殿で、鎌倉が本拠という意識があったのに、義満は朝廷をしきるために御所の近くの室町亭を幕府にして室町殿になり、さらには出家して北山殿になる。北山文化はこの時代の文化全般ではなく、単に北山近辺の義満の趣味なだけという・・・息子の義嗣を親王にしてゆくゆくは親王将軍にするつもりだったとかやりたいほうだいやね。

義満が死んで四代義持になると、堅実になって、朝廷に深入りすることはなくなる。五代将軍義教が義満を目指すまでの話まで。