本覚

たまには仏教の話。
仏教には「本覚」という考えがあって、「一切衆生悉有仏性」というもので、人には本来仏性が備わっているという一種のイデア論的な考え方です。
そんでこの本覚は仏教の根本的な考え方「縁起」と矛盾していると私は考えております。
縁起は一切の物事は他との関係が縁となって生起し、それぞれ個別に存在するものではないということです。絶対的ま存在などないということですな。
この二つの考えを表す例として、禅宗第六祖慧能の話があります。(禅がはたして正統な仏教なのかという議論もありますが・・・)
第五祖弘忍が弟子たちに悟りを偈に表せと命じます。それで弟子筆頭神秀は次のように表しました。

身是菩提樹   身は是菩提樹
心如明鏡台   心は明鏡台の如し
時時勤払拭   時時に勤めて払拭(ふっしき)して
莫使惹塵埃   塵埃(じんあい)をして惹(ひ)かしむることなかれ


心身は元々清浄なものであるから、修行して穢れないようにしたいという内容ですな。それに対して寺男慧能という男は次のように表します。


菩提本無樹    菩提本(もと)樹(じゅ)無し
明鏡亦非台    明鏡も亦台に非ず
本来無一物    本来無一物(ほんらいむいちもつ)
何処惹塵埃    何れの処にか塵埃(じんあい)を惹かん


菩提樹も鏡も元々は無い物なのに、どこが汚れるというの?という内容ですな。そんでまあ後はご期待通り、寺男慧能が上をすっ飛ばして六祖を継いじゃうんですがこれはまた別の話。(神秀と慧能禅宗は分派して、結果的に慧能の派が残るので慧能に都合のいい話が残ったという考えもありますが・・・)ほんで結論的には私は本覚は父母恩重教と同様に後で仏教にくっつけられた考えではないのかなあと思うわけです。密教なんていうのはまんまヒンズー教だものね。